自分という構造と、「個人におけるリスクマネジメント」

自分という構造と、「個人におけるリスクマネジメント」

実は個人個人、一人一人にも「構造」があります。

自分という構造と、「個人におけるリスクマネジメント」

実は個人個人、一人一人にも「構造」があります。

"If You Disappear, I Will Sacrifice Myself To An Exoskeleton and Be Devoured By The Remaining Light" by DerrickT is licensed under CC BY 2.0

 

以前の投稿で、国家における構造についてお話ししました。

 

実は個人個人、一人一人にも「構造」があります。

 

一番わかりやすいのは、就職時に景気動向がどうだったかです。
一般的に大凡10年毎に大きな景気後退が訪れます。
直近で言えば、

 

1997年7月  アジア通貨危機
2008年9月  リーマンショック
2010年    ヨーロッパでのソブリン危機
2019年    新型コロナウィルスによる全世界的な景気後退

 

という様な感じです。
1991年に日本はバブル景気のハードランディングをやってます。
要するにこれらの景気後退時期に就職を迎えてしまったという、その人の生まれたときに決まっていた「構造」がそこにあったのです。

 

子供が生まれるというときに、そこまで考えている人はおそらく皆無でしょう。それに景気後退して就職に困ったからと言って、それで人生が終わるわけでもありません。

 

ただ、「生きづらい」だけです。

 

ではこの「生きづらい」時をどの様に生きていけばよいのか。
それが「個人における構造の問題」です。

 

残念ながら「個人における構造」は、生まれたときに確定しています。

ですがその確定した「個人における構造」というのは、その人に対して無表情で中立的です。制約をかけていてもです。
「構造」は、あくまでも環境でしかありません。
その環境に対してどの様に働きかけるのか。
どの様に利用するのかという、「投企」の問題が残っています。
人生はこの「構造」をどの様に利用するかということでもあります。

 

私が考える「個人におけるリスクマネジメント」というのは、この様な「構造」に着目して、その人がどの様に「行動」=「投企」すれば生きやすくなるのかという問題です。

 

古代中国の言葉に、「吉凶悔吝動より生ず」というものがあります。
その人の考え方や動き方次第で、「構造」を利用できるということです。
生年月日やどこで生まれたか、どの様な両親から生まれたのかという環境は決定済みの「構造」です。
その決定済みの「構造」にどの様に働きかけ、「生きやすく」するのか。
それが「個人におけるリスクマネジメント」です。