そう思いたい「事実」と、目の前にある「現実」。今の中国、韓国と日本との関係に当てはめて考えてみる。

そう思いたい「事実」と、目の前にある「現実」。今の中国、韓国と日本との関係に当てはめて考えてみる。

「事実」には、「そうであって欲しい」というバイアスが載ります。

そう思いたい「事実」と、目の前にある「現実」。今の中国、韓国と日本との関係に当てはめて考えてみる。

「事実」には、「そうであって欲しい」というバイアスが載ります。

"Fact: Kitten loves MacBook" by Ryan Forsythe is licensed with CC BY-SA 2.0. To view a copy of this license, visit https://creativecommons.org/licenses/by-sa/2.0/

 

「事実」という言葉が表すものは、過去です。

それに対して、「現実」というのは今あるこの瞬間です。

 

「現実」は変えられませんが、過去である「事実」は「現実」ではないので、人々の記憶の中で変質していきます。
その為「事実」には、「そうであって欲しい」というバイアスが載ります。

 

”「事実」を集めて検証する”

 

一見正しく見えますが、そこで言う「事実」とは「現実」を100%反映したものではあり得ません。まずその時点で常識とされる常態は、起こらなかった事として記録されなかった可能性があります。常態は、「あった事」にならないのです。

 

これは古典を読む上で大きな課題となります。
例えば古典経済学の金字塔であるアダム・スミスの国富論にしても、その当時の常識や常態を知らないで読むと、間違う可能性があります。
古典はもちろんのこと、現代においても論文は想定する読者を念頭において書かれます。その想定する読者の中で常識あるいは当然のこととされる背景は、書かれなかった「暗黙の了解事項」です。その「暗黙の了解事項」を見逃しては、理解そのものが間違う可能性があるのです。

 

同じ様に過去のことを直接経験した世代においても、「こうであって欲しかった」という思いがあれば、その思いが背景に滲み出した「事実」を表出することになります。「事実」検証というのはこの様なバイアスを考慮し、その検証者の持つ傾向(バイアス)も考慮して、「事実」の選択がバランスと公平を期したものかどうかまず検討を加えなければなりません。

 

ですが、往々にして検証者も研究者もバランスと公平を欠くケースが散見されます。これは検証しようとする意図が紛れ込むためでしょう。
「こうであって欲しい」、「こうでなければならない」という感覚が支配的である程、その感覚にそぐわない「事実」は、ノイズとして無意識のうちに選別され、なかったことにされていきます。

 

一つ「事実」を集めた検証の例を上げて考えてみましょう。

お隣の「韓国」と言う題材です。
面白いことに朝鮮半島で日本統治下で行われた「事実」について、それを専門とする研究者間での意見の相違は、韓国と日本の間でほとんどないそうです。双方から検証した「事実」は、バランスと公平が保たれていると言えるのかも知れません。
またソウル大学を中心として、大学院にバランスと公平さを担保できるだけの資料が「事実」として保管されているとのことです。

 

この状況があるのに、「こうであって欲しい」、「こうでなければならない」という感覚が韓国にも、日本の一定の人たちにもある様です。
人間の「事実」というものは、この様にバイアスがかかるものです。

 

専門家が一致しているのに、その「事実」を認めない人たちの提示する「事実」で扇動に乗ってしまう大衆がいる。それが政治的な意図に基づいた「事実」、正確には「フェイク」「プロパガンダ」であったとしてもです。
「こうであって欲しい」、「こうでなければならない」という義務的な感覚がそうさせるのです。

 

この様な「現実」を私たちは、肝に銘じる必要があると思うのです。

 

お客様から見た「事実」と、提供者から見た「事実」は違う。
お客様から見た「事実」は、提供者から見た「事実」と異なる可能性があるのです。それは、見る立場と損得勘定がバイアスとして掛かるからです。

 

「歴史」は「事実」に基づくものだそうです。
曲がりなりにも、ある程度の学問的な客観性が担保されているわけです。
でも「国史」は「こうであって欲しい」「こうであったに違いない」ものに基づいて良いものらしいです。

 

「国史」は、所謂”神話”です。単なる思い込みに過ぎません。

 

それでも”神話”に縋り付かなければ生きていけない人たちもいる。
実に、厄介なことです。

 

「思い込み」だけで「事実」を構成し、それだけが「真実」で「正しい」とする人に対峙するほど、めんどくさいことはありません。

第三者に頼んで、第三者に裁定してもらう。これしかないでしょう。
ところが第三者にしてみれば、どちらからも恨まれる様な損な立場に立たされたくありません。

 

そうなるといつまでも対立は続くことになります。
第三者がその裁定を行う歴史的な義務があってもです。
やらないと放置したら、そのうちに爆発するとしてもです。
第三者に直接的な被害や損得が発生しない以上、第三者からは「無かった事」にされるのです。

 

「現実」は違います。
今目の前にあります。
誰の目で見ても明らかです。

 

その「現実」でさえ、「こうであって欲しい」、「こうでなければならない」というドグマに支配されている人たちからは「無かった事」になります。あるいは「自分が殺されても、人を殺めたくない」などという一種の人間としての理想に囚われた「良い人」からも、そもそも存在しなかったことになります。

 

周りを冷静に見てみると、私たちの周りは「バイアス」だらけです。

「曇りなき眼で見極め、決める」とは、もののけ姫で主人公が言う台詞の一つですが、私たち凡人にはなかなか難しいことだと思います。

 

一段階段を登って、見渡してみる。
課題にぶつかったときに必要な態度です。
決して棚上げして相手が有利にならない様にしないといけないのは、日本人は中国との交渉過程で学んできたはずですが、おそらくまたその中国の手の上に日本は載って踊らされるのでしょう。
反省しない、一段上がって景色を眺めない国民に明日はありません。

 

尤も、私は中国が既に自滅の道を選んだと見ています。
疫病、洪水、異常気象、蝗害、環境汚染、周辺国との衝突、歴史的な優越感と屈辱と捉える近代史、中華民族でない清王朝を中国民族の王朝と錯誤する恣意的態度、官僚腐敗…

 

やりすぎです。

 

一段高いところに登って、2025年まで待とうではありませんか。
中国と韓国には、それまでは当たらず障らずが良いと思うのです。