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それでも「科学的で無い」、「迷信」として、「過去の科学的思索」で出来た「説明モデルとしての占い」を断ずる人が少なくありません。
申し訳ありませんが、その方が"理学系の大学の学部"を出られていたとしたら、何を学んでこられたのでしょうか?
私が大学の理学部に入る前、教養学部で最初に叩き込まれたのがこれです。
「科学的態度とは、常に疑いを持って根拠を再度検討すること。」
「もっと大事なのは、定理と呼ばれる物であっても単なる条件を限定した説明モデルに過ぎないことを理解しておくこと。」
「粒度や単位を大事にすること。粒度や単位が変われば、現象が変わることを理解すること。」
当然教養学部なので、法学部や経済学部などの人たちも一緒の教室にいました。文系の科学とは、上記のような理系の科学的態度を、それぞれの分野に持ち込んだものだという説明を聞いた覚えがあります。
何が言いたいかと言えば、下記です。
「科学的、定説、定理と言われるものも、適用範囲が限定される”仮説”であり、”説明モデル”に過ぎないのです。」
だから「占い」も成立した当時の科学的態度で作られた、”仮説”であり、”説明モデル”なのです。その適用範囲(粒度)と、人間という単位という限度をわきまえてさえいれば、使うべきだし、説明モデルとして有効です。
「ある特定の条件下で再現性があることが、狭い意味での科学的でしかないこと。そこには複雑系の考慮がなされてこなかったこと。」
三元九運説は、占いの時代が来ると言っています。
どうやらこの説明モデルは、今でも有効に機能するようです。
ダメ押しをします。
方便品では、「真実は仏同士の会話でしか理解されないものだ。」と書かれています。私たちはニュートン的物理学の世界から、相対性理論に進み、その先に数学の力で進んでいます。
それでもわからないことや現象が有り、その説明モデルとして「超ひも」ですとか、「大統一理論」などが語られています。
それでも全ては説明できていません。
「ニュートン的ラプラスの悪魔」から自身を解き放つのは難しいです。
人間は考えたくない存在だからです。「考える葦」のくせに、「考えるのが嫌いで省略したがる」のです。
そういうことをわきまえておかないと、私たちはすぐに楽な方に逃げ込んでしまいます。そこが地獄だとうすうす感じていてもです。