中国古典の限界

中国の古典は、ある意味限界を弁えて使わないといけないものです。

私が中国の古典を読んで、色々なアドバイスに使っていることは以前お話ししたと思います。しかしそれはある意味限界を弁えて使わないといけないものです。

 

まず、年代が紀元前後とかそれよりも昔の話から来ているものがあること。
これは現代への翻訳が必要です。何しろ「易経」も孔子様から500年ほど前の成立とされていますが、孔子様でさえ古すぎて解りにくいとおっしゃっています。それ以上に、孔子様でさえ我々から2600年も前の方なのです。
我々が読み解くのにさらに難解になっているのは、致し方ない事でしょう。

 

また細かく分解して分析する単位を小さく考えやすくする西洋文明に対し、総体で判断する東洋的分析態度が、我々現代日本人には馴染みが薄い事もあります。
江戸時代の武士階級や豪農たちでは当たり前だった、四書五経を諳んじるということが無くなってしまった現代日本人には、教養としての東洋思想は皆無と言って良い状況です。これは「脱亜入欧」の負の遺産と私は考えます。

 

次に中華文明の有効範囲として、北緯23.4度の北回帰線から、北緯50度近辺までの農業/牧畜が可能な線までという限界があります。
これは基本的に四季のある温帯でないと検証されていない意味です。
実は南半球では使えないのです。

 

大体において中国の古典では見えないものを重視すると言っても過言ではありません。いや、重視するしかないと言っても良いでしょう。

 

九星遁甲にしても、元々は軍事技術です。
諸葛亮孔明が魏の大軍を打ち負かしたのは、気象の変わり目という見えないものを利用したからです。
その様に九星遁甲というものは、目に見えない微妙な力がどの様に作用するのかを分析する手段となっています。
ただしこれも有効範囲として、北緯23.4度の北回帰線から、北緯50度近辺までの農業/牧畜が可能な線までという限界があります。

 

目に見えないものを分析するのに西洋文明は数学を持ってし、東洋文明は総体を観察する事で持ってする。その違いはあるものの、両方を併用することが望ましいと言えるでしょう。

 

面白いことに、仏教や東洋思想に興味を持つ物理学者は多いと聞きます。

 

なんでも限界を弁えて使うのは問題はないのです。
濫用しなければ良いのです。